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日記、歴史などなど
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Posted : 2024/11/23 03:18
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Posted : 2007/11/25 17:12
b3ce612d.JPG大姫と義高。

むかし小説で書いてた二人なんだけど、すごく好きな二人です。
大姫→源頼朝(源氏の棟梁)と正妻・北条政子の間に生まれた一の姫。
清水冠者義高(木曽義高)→頼朝の従兄弟・木曽義仲の嫡男。

源氏の棟梁の座を狙う義仲と前棟梁の息子であり棟梁たらんとする頼朝は当然仲がいいはずもなく・・。
でもとりあえず、「平家倒すために協力しようね☆」ってことで互いの娘と息子をめあわせて同盟を結ぶわけです。
結局、一年ほどは何事も無かったけど、頼朝と義仲が再び険悪になり、争いの末に義仲が死んでしまうと義高も殺されてしまうのですが・・。
その時、義高は12歳、大姫は7歳・・。
この義高の死をきっかけに大姫は体調を崩し、結婚話を持って来られると「義高様以外の人と結婚するくらいなら海に身を投げます!」とか猛烈に抵抗して、結局19歳で世を去る・・・というのが通説。
頼朝にも「義高を生かしてたら義高が成長したあかつきには父上の仇ー!って自分を狙うかも・・」っていう危惧があったのだろうし、事情はあったと思いますが・・・・父親としては非情すぎるかも・・。

こういう小さい子の話は好きです。
結婚した(出会った)年齢が幼い子はけっこういます。
大姫と義高はもちろんのこと。
☆五徳(織田信長の娘・9歳)と岡崎三郎信康(徳川家康の嫡男・9歳)
☆千姫(家康の孫娘・7歳)と豊臣秀頼(秀吉の息子・11歳)
・・とか。いかにも抗う力のないまま歴史や周囲に翻弄されてまっす!!という感じや子供ならではの真っ直ぐさや純粋さがいいと思うのです・・。
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Posted : 2007/11/25 02:28
_______暢夫、君は十年後に必要とされる人材です。
_______晋作、十年じゃ。十年待て。おのしの言うことが実現できるのは十年後じゃ。
_______暢夫、あとは頼んだよ。

心から師と仰いだ人と、誰よりも僕の藩への想いを理解してくれた人は、僕のやりたいことができる時、時代が僕を必要とする時は「十年後」だと言った。
ともに松門の竜虎とまで称された盟友は「あとを頼む」と言って散った。

「・・・・ッ」
ヒュッとのどが鳴り、晋作は背を丸め、せきこむ。
ようやくおさまって、口をおさえていた手を見れば鮮やかな緋が目にとびこんできた。
指の間から滴る緋が畳の上にパタリと落ちる。

_______十年。
待つつもりだった。待てるはずだった。
だが。
(・・・・待てんのぉ・・)
そんな時間は自分には残っていないようだ。
ならば時を、時代の流れを多少乱暴だが強引に引き寄せてしまうしかない。
自分を必要とせざるを得ない時代に変えてしまうしかない。
吉田も久坂も入江も逝った。
残ったのは自分しかいない。
_____やってやろう。
託されたことを成し遂げぬままに死ぬほど情けない人間ではないつもりだ。
晋作はくッと唇を歪めた。
Posted : 2007/11/22 22:09
十一月二十二日・・。
江戸幕府第十五代将軍。徳川慶喜の命日です。

絵が描きたかった・・・ッ!!自己満足でしかないかもしれないけど、ガシガシと絵が描きたかったのですが・・・
流石に明日プレテストですし、とりあえず週末の模試尽くしは明日が最後ですから・・断念!!慶喜殿、いつか描きたいよぅ・・ッ(泣)

ちなみに私は「ケイキ殿」の呼び方が好きなんですが・・・この呼び方は静岡のほうに多いらしいですね~。
ケイキさん好きです、写真見ても男前だと思いますvv
水戸藩主・徳川斉昭(烈公)の第七子、幼名を七郎麿。
一橋家当主、禁裏守衛総督、将軍後見職、のち十五代目、徳川最後の将軍。
薩摩の豚肉が大好きだったそうで・・、んであだ名が「豚一公(豚好きの一橋公の意)」・・。頭はイイと思います。むしろ良すぎたというか・・・桂さんに「家康の再来」とか言われてますし、・・・でも「百才あって一誠なし」とか散々な言われようもありますけどね・・。
十四代の家茂くんがむしろ愛されすぎたいうか・・・幕末のアイドルですよ、家茂くん(笑)
慶喜は頭よすぎてむしろ達観してるように見えます。
しかも頭もイイから周りがちょっと平凡に見えて仕方なくて、しかも突然動くから周りにも理解されないという・・。面倒な人ww
でも私は「大政奉還」はケイキ殿にどんな思惑や考えがあったにせよ英断派なので;;好きです。
坂本竜馬も、大政奉還の決断は褒めちぎってるみたいですし。

維新後は、パンやミルク好きで、写真や釣りや自転車など多趣味に生きたケイキ殿。
今はただ、その冥福を祈ります。
Posted : 2007/11/21 18:25

1195635670.png「昔者、荘周、夢に胡蝶となる。栩栩然として胡蝶なり。自ら楽しみて志に適へるかな。周たるを知らざるなり。
俄然として覚むれば、すなはちきょきょ然として周なり。
知らず、周の夢に胡蝶となれるか、胡蝶の夢に周となれるかを。
周と胡蝶とは、すなはち必ず分あらん。これをこれ物化といふ」

「いつのことだったか、私、荘周(荘子)は夢の中で胡蝶になっていた。嬉々として空を舞い、胡蝶そのものだった。ただ楽しく、すっかり心に満足を覚えた。自分が荘周という人間であることにも気づかないほどだった。ところが、にわかに夢から覚めてみると、驚いたことに自分は荘周という人間だったのである。
そこで私はわからなくなった。いったい荘周である私が蝶になる夢を見たのか、それとも蝶が荘周になる夢を見ているのか。
荘周は荘周、胡蝶は胡蝶、常識的にはっきり区別があるだろうに、自分には区別がつかない。なぜだろう。これこそ物の変化というものなのだ」

「胡蝶の夢」・・・夢と現実がはっきり区別されないこと。また、人生のはかなさのたとえ。
ですが、私はこの故事がむしょ~に好きですvv
最後らへんはわかったようなわからんような感じですが、学校で習うものじゃないので何となく意味がわかればいいよね☆という・・・(笑)
多分「蝶」がでてくるから好きなのもあるかも・・・ww蝶って桜、梅、・・・和風なものや、王冠、十字架とか私の好きなグッズの中に必ずあるしww
「蝶」の別名「夢見鳥」も綺麗で好きな言葉ですvv(^v^)

Posted : 2007/11/20 21:35
e3791b98jpeg「困ったを言わない男」・・・・・・・・誰でしょう??(笑)










晋作ですvv
彼はその生涯で一度も「困った」と言わなかったそうで。
「困ったと言うな」というのは、お父さんの小忠太の教えのようです。

「その時歴史が動いた・奇兵隊決起せよ!」の本には、
「男子というものは、困ったということは、決して言うものじゃない。自分は父からやかましく言われたが、自分どもは、とにかく平生、つまらぬことに、何の気もなく困ったという癖がある。あれはよろしくない。いかなる難局に処しても、必ず窮すれば通ずでどうにかなるもんだ。困るなどという事はあるものではない」
というふうに書いてあります。

確かに、「困った」と思えば思ったが最後、そこでいったん思考停止しちゃうもんなァ・・。
それが戦場においては死につながるだろうし・・。
S氏の小説には「窮地が死地になる」という書き方がしてあったと思いますが、その通りだろうなァ・・と妙にうなづいてしまいましたww
Posted : 2007/11/20 18:29

半酔半醒 酔狂にあらず

始めて知る真義と真情と

今より好名の志(名声を好む心)を脱却し

去って深山に入り 一生を送らん




高杉晋作 文久三年ごろの詩




・・・・・私も深山に入りたい(泣)



一番欲しいものは絶対に手に入らないし

大事なもものはいつだって手から零れ落ちて

初めてその大切さを知ることになる

絶対手の届かない人なのに、どうしてこんなに好きなんだろう

どうすれば届くのかな

答えがあればラクなのに



Posted : 2007/11/18 19:17
「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

この言葉がすごく好きです。
晋作の質問に松陰が獄中から答えてくれたものですが、これがそれからの晋作の行動にすごく影響するんです。
晋作の「丈夫、死すべき所 如何(男子が死すべき所とはどこでしょうか)」という問いに、

松陰が「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

「死は好むものでもなく、憎むものでもない。世の中には生きながらに心の死んでいる者がいるかと思えば、
その身は滅んでも魂の存ずる者もいる。死して不朽の見込みがあればいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みがあるならばいつまでも生きたらよいのである」

と答えてくれるのですが、この松陰の教えの後、晋作は逃げるときはちゃちゃっと逃げて、ここぞ!という時に命を賭ける、そんな生き方をするようになります。
「留魂録」にある松陰の人の一生を四季に例えた死生観も好きですが、晋作に多大な影響を与えたこの死生観が私はすごく好きです。

これを受け取った時の晋作の気持ち、書いたときの松陰の気持ちを思うと無性に切なくなります。
Posted : 2007/11/17 20:48

吉田松陰寅次郎(寅年生まれの次男だから)。
号は二十一回猛士。

この人の叔父・玉木文之進がつくり、後に松陰が主催した萩城下の東、松本村にある「松下村塾」、民家の納屋を改造した八畳間(後増築)の小さな塾ですが、この塾から維新回天は始まったんじゃないかと思ってしまうくらい、この塾からは驚くほど人材がでます。
(有名な人を上げるなら、高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿・伊藤博文・品川弥次郎・前原一誠・時山直八・山田顕義・山縣有朋・松浦松洞・寺島忠三郎などでしょうか・・桂さんは松陰が藩校・明倫館で教えてた頃の生徒)

松陰先生は教育者、思想家、兵学者ですけど、私の中ではひどく清廉なイメージの人です。
まずこの塾が今の学校と違うところは先生である松陰が生徒たちのことを「友」と呼んだことだと思います。
生徒が「ご教授をお願いします」と言うと、
松陰は「私は教授はできませんが、君たちと一緒に研究をすることはできます」と言った感じで、松陰は生徒たちを「諸友」と呼び、自分も未熟者だと生徒たちの中に入り、互いを高め合っていくというその教育方針が、身分が良くなければ入れない藩校や封建制の縦社会の中では絶対生まれない、「友だち」や「仲間」という意識を生んだんだと思います。
そして松陰って人の才能を見つけ、伸ばすことに異常に長けているんです(笑)
その上、情報を重視し、過激で、純粋、しかもお人よしという・・・可憐な人。

そんな彼は安政の大獄・・・幕府による弾圧で、評定の場で幕府がまだ掴んでいなかった情報まで自白しちゃってたり、その影響力を危険視されたりで死罪になるんですが、その辞世、

「身はたとひ 武蔵野野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」

「親思ふこころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何と聞くらん」
(私が親を思う、それ以上に私を思ってくれる父や母は私が死ぬという今日の知らせを何と聞くだろう)

この人らしいなァ・・・とひどく切なくなりました。

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読書、日本史、小説イラストかく
自己紹介:
マンガ、日本史、小説に異常に執着する人間。
出身・居住地は維新三傑のうち二人と同じ。

★日本史★
平安末期・戦国・幕末明治~。日本史全般好きですが、執着激しいのは武士が出てきてからの時代。義経で興味を持ち、中学で信長で日本史にどっぷりはまりました。信長を見つめて、晋作を追いかける日々です。晋作を追いかけ始めて9年目突入。松下村塾好き。山口好き。しかし鹿児島郷中チェストたちも愛してます。佐幕倒幕関係なく好きです。新撰組も会津も幕府ももちろん^^
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