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百四十年後の世であなたを・・・
「春風」の名を持つ人を想う
今年は竜馬が没後140年だったから・・・・・竜馬と同じ年に死んだ晋作も140年なんだよなァ・・・・。
竜馬と晋作・・・梅好き酒好き同士で気が合いそうだ(笑)
私は二人とも英雄だと思うけど、それは彼らのほんの一面のように思えるのです(^^;)
竜馬も好きなんですけど、どーーーーーっしても晋作に惹かれてやまないのは、・・・・・・・・・・何でしょう?晋作の矛盾っぷりや人間らしさが、より生々しさを感じるからだろうか・・・??謎だ・・・(+△+;)
長州が生んだ幕末の風雲児・高杉晋作。
英国公使館焼き討ち・将軍にヤジを飛ばす・暗殺計画・四回の脱藩・功山寺決起・・etc・・・これだけのことをしてるのに、育ちもいいし、主君に忠を親には孝を、そういう教育を受けてるから親や藩主には逆らえないww
だから親に言われれば大人しく奥さんももらうし、帰って来いと言われれば帰る、村塾に通うなといわれれば夜中にこっそり通う。
そんなんだから国事に思い切り奔走はできなくてグダグダ悩んだり。
松陰を見習ってタバコをやめようかと思ったけど断念したり・・・。
奇兵隊を作ったけど・・・あれはどーしようもなくて考え付いた苦肉の策で、戦いが終わったら農民は自分の仕事に帰るべきだ~とか言ったり、でも奇兵隊創設は誇りだったり。
自分は毛利家譜代の臣だ!という気持ちからのじゃっかんの驕り。
完全には捨てることのできない私欲・・・でも身分とかには興味ない。
志を取った代わりに叶わなかった夢。
それでもどこまでも真剣に、己の人生という舞台を演じきったその姿がただ、鮮やかに迫ってくるから。
精一杯面白く生きたと笑って逝く、その潔さが・・・。
「かなしい」と思うんです・・。
長州の井上聞多(馨)!!vv
私は幕末期の志道聞多(しじもんた)の名前のほうがカッコよくて好きww
聞多って言う名前は、井上があまりにも色んなことを知ってて、物事に精通しているため藩主から「そちは聞多と名乗れ」と、賜った名です(笑)
女好き同士、馬が合うのか俊輔(伊藤博文)とはだいの仲良し☆
高杉よりも6歳ほど年上。
なのにお金の調達はいつも聞多の役目・・・ドンマイ!!(にこっ)
かんしゃく持ちで、いきなり切腹しようとかしたりするから、あの高杉に「やめろ!君もじゅうぶん過激じゃないか!!」って止められてるしww
あと藩内の保守派に闇討ちされて瀕死。五十針ほど縫ってます。・・・・・それでも生きてる聞多さん・・ゴキブリ並みの生命力。
明治政府に財政がわかる人物が少なかったため結構、重宝されてる。
でもその商人っぽい感じが商人嫌いの西郷に嫌われたww
鹿鳴館外交が有名!極端な欧化政策が批判のまとに・・・あと汚職の噂が絶えなくて江藤さんにそこを追及されまくって危なかった・・・・;;
なにげに略奪結婚☆
あと料理好き~。味はちょっと微妙らしいが・・でも天皇に誉められたのに自信を持ってガンガン作ったものを人に振舞う迷惑な人vv(愛!!)
男らしくていい奴だよ!!ww
_______晋作、十年じゃ。十年待て。おのしの言うことが実現できるのは十年後じゃ。
_______暢夫、あとは頼んだよ。
心から師と仰いだ人と、誰よりも僕の藩への想いを理解してくれた人は、僕のやりたいことができる時、時代が僕を必要とする時は「十年後」だと言った。
ともに松門の竜虎とまで称された盟友は「あとを頼む」と言って散った。
「・・・・ッ」
ヒュッとのどが鳴り、晋作は背を丸め、せきこむ。
ようやくおさまって、口をおさえていた手を見れば鮮やかな緋が目にとびこんできた。
指の間から滴る緋が畳の上にパタリと落ちる。
_______十年。
待つつもりだった。待てるはずだった。
だが。
(・・・・待てんのぉ・・)
そんな時間は自分には残っていないようだ。
ならば時を、時代の流れを多少乱暴だが強引に引き寄せてしまうしかない。
自分を必要とせざるを得ない時代に変えてしまうしかない。
吉田も久坂も入江も逝った。
残ったのは自分しかいない。
_____やってやろう。
託されたことを成し遂げぬままに死ぬほど情けない人間ではないつもりだ。
晋作はくッと唇を歪めた。
晋作ですvv
彼はその生涯で一度も「困った」と言わなかったそうで。
「困ったと言うな」というのは、お父さんの小忠太の教えのようです。
「その時歴史が動いた・奇兵隊決起せよ!」の本には、
「男子というものは、困ったということは、決して言うものじゃない。自分は父からやかましく言われたが、自分どもは、とにかく平生、つまらぬことに、何の気もなく困ったという癖がある。あれはよろしくない。いかなる難局に処しても、必ず窮すれば通ずでどうにかなるもんだ。困るなどという事はあるものではない」
というふうに書いてあります。
確かに、「困った」と思えば思ったが最後、そこでいったん思考停止しちゃうもんなァ・・。
それが戦場においては死につながるだろうし・・。
S氏の小説には「窮地が死地になる」という書き方がしてあったと思いますが、その通りだろうなァ・・と妙にうなづいてしまいましたww
この言葉がすごく好きです。
晋作の質問に松陰が獄中から答えてくれたものですが、これがそれからの晋作の行動にすごく影響するんです。
晋作の「丈夫、死すべき所 如何(男子が死すべき所とはどこでしょうか)」という問いに、
松陰が「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」
「死は好むものでもなく、憎むものでもない。世の中には生きながらに心の死んでいる者がいるかと思えば、
その身は滅んでも魂の存ずる者もいる。死して不朽の見込みがあればいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みがあるならばいつまでも生きたらよいのである」
と答えてくれるのですが、この松陰の教えの後、晋作は逃げるときはちゃちゃっと逃げて、ここぞ!という時に命を賭ける、そんな生き方をするようになります。
「留魂録」にある松陰の人の一生を四季に例えた死生観も好きですが、晋作に多大な影響を与えたこの死生観が私はすごく好きです。
これを受け取った時の晋作の気持ち、書いたときの松陰の気持ちを思うと無性に切なくなります。
吉田松陰寅次郎(寅年生まれの次男だから)。
号は二十一回猛士。
この人の叔父・玉木文之進がつくり、後に松陰が主催した萩城下の東、松本村にある「松下村塾」、民家の納屋を改造した八畳間(後増築)の小さな塾ですが、この塾から維新回天は始まったんじゃないかと思ってしまうくらい、この塾からは驚くほど人材がでます。
(有名な人を上げるなら、高杉晋作・久坂玄瑞・入江九一・吉田稔麿・伊藤博文・品川弥次郎・前原一誠・時山直八・山田顕義・山縣有朋・松浦松洞・寺島忠三郎などでしょうか・・桂さんは松陰が藩校・明倫館で教えてた頃の生徒)
松陰先生は教育者、思想家、兵学者ですけど、私の中ではひどく清廉なイメージの人です。
まずこの塾が今の学校と違うところは先生である松陰が生徒たちのことを「友」と呼んだことだと思います。
生徒が「ご教授をお願いします」と言うと、
松陰は「私は教授はできませんが、君たちと一緒に研究をすることはできます」と言った感じで、松陰は生徒たちを「諸友」と呼び、自分も未熟者だと生徒たちの中に入り、互いを高め合っていくというその教育方針が、身分が良くなければ入れない藩校や封建制の縦社会の中では絶対生まれない、「友だち」や「仲間」という意識を生んだんだと思います。
そして松陰って人の才能を見つけ、伸ばすことに異常に長けているんです(笑)
その上、情報を重視し、過激で、純粋、しかもお人よしという・・・可憐な人。
そんな彼は安政の大獄・・・幕府による弾圧で、評定の場で幕府がまだ掴んでいなかった情報まで自白しちゃってたり、その影響力を危険視されたりで死罪になるんですが、その辞世、
「身はたとひ 武蔵野野辺に朽ちぬとも 留めおかまし 大和魂」
「親思ふこころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何と聞くらん」
(私が親を思う、それ以上に私を思ってくれる父や母は私が死ぬという今日の知らせを何と聞くだろう)
この人らしいなァ・・・とひどく切なくなりました。
出身・居住地は維新三傑のうち二人と同じ。
★日本史★
平安末期・戦国・幕末明治~。日本史全般好きですが、執着激しいのは武士が出てきてからの時代。義経で興味を持ち、中学で信長で日本史にどっぷりはまりました。信長を見つめて、晋作を追いかける日々です。晋作を追いかけ始めて9年目突入。松下村塾好き。山口好き。しかし鹿児島郷中チェストたちも愛してます。佐幕倒幕関係なく好きです。新撰組も会津も幕府ももちろん^^
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