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Posted : 2024/05/21 05:00
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Posted : 2008/04/28 14:56
「晋作って何したの??」

そう聞かれたら、真っ先にたいていの人の頭に浮かぶのは「奇兵隊」だと思うんですよ。
他にも高校の日本史で出てくる「英国公使館焼き討ち事件」や「奇兵隊を率いて挙兵し長州藩の反論を掌握し、革新派台頭」とか。

でも奇兵隊のすごさってあの時代の封建制や幕藩体制、身分秩序とかを考えないといまいち・・・どうすごいのかわからないし・・・。

龍馬の「薩長同盟」の仲介みたいに「仲の悪い長州と薩摩を仲良くさせたんだぜっ☆」ってわかりやすく言いかえられるものってないのかなぁ・・・。



・・・・・・・・。
ここからは晋作のしたこととかグダグダとすっっっっっっごい長く語ってるから、「興味がある」もしくは「興味ないけどヒマだしよんでやるよ(笑)」って人はドーゾ☆☆(@∀@)ノ

・・・・・・・忠告しましたよ??(笑)

<高杉晋作> 1839~1867
萩藩・大組(中級クラスの武家、上士)の家の嫡男として生まれる。
十九歳のとき、吉田松陰に出会い、萩城下のはずれにある私塾・松下村塾に通うようになる。 

このころ三代目将軍・家光以来の鎖国の法はとかれておらず、その法を無視し、外国というものを知るために外国に行こうとした師・吉田松陰は罪人だった。

とうぜん、晋作の親も祖父母も大事な跡取り息子が罪人の塾にかようことを許すはずがない。
しかし、それでも藩校で教えられることを「腐儒」と詠んだ晋作は家族にばれぬように夜中に家を抜け出し塾に通った。


幕末。
日本が国際社会の中でどう生きるか、その選択を迫られた時代。
政府の基本体系ができあがっていった、現代の基礎ができた時代。

二百五十年以上も平和な時代が続き、人々が平和ボケしきっていたころ。
1853年、ペリーが来航し、眠るように穏やかなときを過ごしていた日本は突如、その眠りの中からたたき起こされた。
長く続いた泰平のために幕府にはもはや戦う力も外国と対等に渡り合う力もない。
ただ外国の要求のままに次々と日本に不利な条約を締結していく。

このままでは隣の清国のように外国の植民地にされてしまう。
そんな人々の危機感がつのり、
「主体性のない幕府を倒し、京におわす帝のもと外国と対等に渡り合える新国家を!」
ってことで倒幕志士がわんさかでてくる。


最初はただの外交問題。
でも政府(この頃は幕府)の外交が下手すぎて、それに危機感を持った人や、今まで幕府のつくった身分制度にしいたげられてた人たちの思想まで出てきて・・・・
いろんな思想がぐちゃぐちゃと混ざって渦巻いて、ただの外交問題から国の革命にまでいっちゃうという・・・・。

晋作は別に身分は悪くないし、この人のお父さんお祖父さんは保守派の典型ともいえるほど保守的な人だから、晋作もそういう人になっても全然おかしくなかった。

でもこの人は吉田松陰に出会ってしまった。
これが始まりかもなぁ・・・・。

晋作は二十四歳のときに上海に行く。
幕艦にちゃんと正式な随行員として行くんですが(薩摩の五代友厚とかもこの時一緒)、上海ですごいものを見るんですね。

港にひしめく何十何百という蒸気船。
太平天国の乱をイギリスやフランス軍の力を借りて鎮圧する清国政府。
清国にかかっている橋だというのに、悠々とわたるのは外国人ばかりで清国人は金を払ってひっそりとわたってゆく。
広場の入り口には『犬と中国人は入るべからず』とかいてある。

晋作は戦慄したはずです。
日本より先に開国し、列強に乗りこまれた清国はこんな状態になっている、この清国人の姿はこのままいけば未来の日本人の姿になる。

帰国した彼はさらに攘夷熱を高め、品川のイギリス公使館を焼き討ちします。

ふつう外国の力を目にすると攘夷の無謀を悟って開国派になるんですけどね・・・ww
開国したほうがイイと知りながら攘夷を唱え、その外国に屈しはせぬという気概を倒幕へと向かわせる所がこの人の凄み。

でも攘夷を空念仏のように唱え、ただ異人を斬り殺せばイイというような単純な攘夷思想に嫌気がさした彼は「十年ヒマください~」とか言って表舞台から忽然と消えます。
周囲が冷静さを失うぐらい熱狂すると、晋作はなぜか急速に冷めるんですよね(笑)

その間に晋作の仲間たちは外国船に攘夷決行ってことでガンガン砲撃しまくって、その後外国船が報復に来たので晋作は藩主に呼び出されます(十年表には出ませんって言ったのにねェ・・・)
それで武士がぜんぜんまったく戦えねーってことで、藩主も「晋作に全部まかせるよ☆」ってたかだか二十五歳の若造に一任してくれちゃったんで晋作は『奇兵隊』をつくります。

『奇兵隊』・・・「戦いは武士」って概念をくつがえした画期的軍隊ではありますが、晋作にとっては武士が情けないから仕方なくつくるしかなかった苦肉の策です。
戦いが終わったらまたもとの仕事に・・・みたいなことを言ってますし。
でもこの人が何よりも誇りとしたのがこの奇兵隊創設だとおもいます。
「奇兵隊開闢総督」って墓石にほってくれって言ってますからね(^^)


そして英米仏オランダが長州を砲撃した四国艦隊下関砲撃事件では藩の正使として講和におもむきます。
賠償金300万ドルを払うように言われ「いや、そもそも最初に私たちが砲撃したのは幕府の攘夷実行命令にしたがっただけっすから、幕府にお金は請求してください」とつっぱね・・・・

彦島租借さして~と言われれば「あそこは昔から神聖な場所なんで・・・・」と古事記の解釈をしてけむにまく・・・(爆)

このときの晋作は烏帽子に黄色の直垂であらわれ、天才通訳アーネスト・サトウに「魔王のように傲然としていた」とか言われてますww


幕府が長州討とうって征長軍組織するとそれに恐れをなして藩の実権を握った保守派が革新派を弾圧し始めたんで、諸隊をひきいて下関で挙兵し、保守派を倒し、藩論を倒幕へと導く。
ここで高杉が挙兵してなかったら長州が持ち直すのはもっと後だったかも・・・と個人的には思ってます。
維新が遅れるわ~ww
最初に高杉の挙兵に従ってくれたのって俊ちゃん(伊藤博文)ひきいる力士隊80人だからね!!
誰も勝つって思ってなかったからね!!
でも勝ったからね!!

しかも父親はどっちかといえば俗論(保守)のほうだし、なおかつ保守派が藩の実権を握ってるということは、それに対して決起する晋作は失敗すればただの謀反人だし・・・・。

「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし 生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」

松陰先生の言葉通り大業のために何が何でも生きのびた晋作もこの時は死を覚悟してたみたい。
この時を不朽の見込みあるときだと思ったのでしょう。
同志に手紙を残してます。

「・・・・・・・・自分が死んだならば、墓前に芸妓を集めて、三味線でもならしてほしい。
 墓の表には、
 故奇兵隊開闢総督高杉晋作即
 西海一狂生東行墓
 遊撃将軍谷梅之助也
 と書き、裏には、
 毛利家恩顧臣高杉某嫡子也
 と書いてほしい」

そのまま勢いをつけて征長軍十五万とも戦って小倉口参謀として活躍。
そんな生活だから結核がどんどん重くなって最期は下関にて病没。

享年29歳。
(正確には27歳八ヵ月・・・。)

幕末の風雲児。
雷電のごとく、時代を駆け抜けた人。

これで奥さんと両親を大切にしてて、藩主と両親にはさからえないお坊ちゃんで、酒と詩歌と三味線好きな風流人って・・・・・そりゃ惚れるさ(何)vv
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イフウ
性別:
女性
職業:
会社員
趣味:
読書、日本史、小説イラストかく
自己紹介:
マンガ、日本史、小説に異常に執着する人間。
出身・居住地は維新三傑のうち二人と同じ。

★日本史★
平安末期・戦国・幕末明治~。日本史全般好きですが、執着激しいのは武士が出てきてからの時代。義経で興味を持ち、中学で信長で日本史にどっぷりはまりました。信長を見つめて、晋作を追いかける日々です。晋作を追いかけ始めて9年目突入。松下村塾好き。山口好き。しかし鹿児島郷中チェストたちも愛してます。佐幕倒幕関係なく好きです。新撰組も会津も幕府ももちろん^^
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